Republic of Uzbekistan ウズベキスタン共和国 ・・・枠の付いた写真は、クリックで拡大表示されます・・・
面積は約45万平方km、人口は約3,000万人、首都はタシケント(Tashkent)、民族はウズベク系、タジク系、カザフ系、言語は公用語のウズベク語の他ロシア語も広く使用されています。宗教は主としてイスラム教スンニ派、ウズベキスタンは旧ソビエト連邦の共和国の一つで、現在のエリア区分は中央アジアに位置しています。国境を2回越えないと海に出られないという、世界的に2カ国しか無い二重内陸国の一つです(もう一つはリヒテンシュタイン)。東にタジキスタン、キルギス(キルギスタン)、北〜西にカザフスタン、西〜南にトルクメニスタン、南にアフガニスタンに囲まれています。『〜スタン』はペルシア語で『〜の国(地)』を意味しているので、ウズベキスタンは『ウズベク人の国』です。福岡から韓国を経由してアシアナ航空で韓国からタシケントまでは約7時間、2001年から直行便もあるようで、日本からは約8時間で行けるようになりました。通貨はスム、2019年春に50,000紙幣が発行されたとのことですが、貨幣価値の変動が大きいので記載は2019年夏の情報です。10,000スムが約140円、レストランでのビールが約20,000スム(約300円)、有料トイレが1,000スム(約15円)でした。
《福岡から韓国、韓国からタシケントのアシアナ航空》 《スム紙幣》 《機内から》
《アフラシャブ号の座席》
《ブハラ》 ウズベキスタンの都市の一つブハラは、サンスクリット語で『修道院』を意味しています。イスラム王朝の庇護の元、優秀な宗教家や科学者が集まって一大都市を形成しましたが、1220年のチンギス・ハーンの来襲でほぼ壊滅してしまいました。その後、16世紀のシャイバニ朝の時代にブハラは復興し、再び多くのモスクやマドラサが建築され、20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれていて、中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇っていました。ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、旧市街は2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されました。 《カラーン・モスク》 カラーン・ミナレットとつながっているカラーン・モスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建造されたブハラで最大のモスクです。カラーンとはタジク語で『大きい』という意味で、1haの広さで約1万人の信者が同時に礼拝できるそうです。1220年のチンギス・ハーンのブハラ侵攻の際、市民はこのカラーン・モスクに閉じこもって祈っていたそうです。 《カラーン・モスクとカラーン・ミナレット》
《サマルカンド》 ウズベキスタンで最も有名な都市サマルカンドは、ウズベキスタンの古都です。アムダリヤ川の支流であるゼラフシャン川河岸にあり、抜けるように美しい青空とモスクの色から『青の都』と呼ばれ、『イスラム世界の宝石』『東方の真珠』など、その美しさを讃える異名は数多くあります。その象徴的なサマルカンドブルーの顔料の主成分は酸化コバルトで、それに石英パウダーなどを混ぜて明るい青色にしているそうです。サマルカンドの町は、2001年に文化交差点としてユネスコ世界遺産(文化遺産)になっていて、見所は旧市街に建つ数々の青いドームの建造物群です。 《シャーヒズィンダ廟群》 アフラシャブの丘の南にあるシャーヒズィンダ廟群は、サマルカンド隋一の聖地で、ティムールの関係者のお墓がズラッと並んでいる『死者の通り』です。11世紀から20世紀にかけて多くの霊廟が建てられ、シャーヒズィンダとは『生ける王』という意味で、預言者ムハンマドの従兄であるクサム・イブン・アッバースが、礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて首を切り落とされてしまいましたがアッバースは何事もなかったかのように礼拝を終え、自分の首を拾って、深い井戸に潜って行ったという伝説が残されています。ウルグ・ベクが建てたという入口の門をくぐると、『天国への階段』と呼ばれる階段があり、段数を数えながら上り下りし、行きと帰りで同じ数だったなら天国へと行くことができるそうです(ちなみに私は下りで数えるのを忘れてしまいました)。
《光と音のショー》 《光り輝くティラカリ・メドレセ》
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